どーも、好奇心の塊とまほーく(@tomahawkch)です!
漫画で学ぶシリーズ!今日は『花の慶次』から『トートロジー』を学んでみましょう。
トートロジーとは?
トートロジーとは、以下のように説明されています。
トートロジーとは、ある事柄を述べるのに、同義語または類語または同語を反復させる修辞技法のこと。同義語反復、類語反復、同語反復等と訳される。関連した概念に冗語があり、しばしば同じ意味で使われることもある。(wikipediaより)
……なるほど、分からん。もっと細かく意味を知る必要がありそうです。
トートロジーは大きく分けると2つの分野で使われており、意味が微妙に違っています。
以下で、分野での違いを見てみましょう。
分野での違い
1つ目は論理学としてのトートロジー、2つ目は文学的な修辞技法としての
1.論理学でのトートロジー
論理学で使われるトートロジーは、「恒真式」とも表されています。
文字通り、必ず正しい命題のことで
例:「aならばa」
これは、解釈によらず常に真となります。
これらは、論理学で式として表すことはできるものの、ただ当たり前のことを言っているだけで、特にそこに意味は持っていません。
2.文学的な修辞技法としてのトートロジー
言語的な意味では、トートロジーは同義語の反復と表
例:「私は私。」
この字面だけ見ると、先ほどの論理学でのトートロジーと同じように、全く意味がないように見えます。
しかし、修辞技法としてのトートロジーの神髄は、ここに意味を持たせてくれることにあります。
例えばこの、字面的には何も意味を成していないように見える「私は私」という文に、前後の文脈を追加してみます。
私は私。だから私はこのままで良いんだ。
どうでしょうか。もしこんな文章だったとしたら、「私は私。」という部分に、例えば決意だったり、あるいは覚悟だったりといった、目には見えない感情が含まれていそうなことが推測できますよね。
それ単体では意味のない字面も、使われ方によって意味のあるものにすることができるという意味で、トートロジーは素敵な修辞技法だと私は思っています。
議論で使ってはいけない
このように複数の意味を持つトートロジーですが、日常で使う場合には注意が必要です。
トートロジーは、先程の例のように「ただの繰り返しに意味を持たせることができる」一方、「議論自体は全く前に進まない」ためです。
一般的な議論では、「AだからB、よってC」、と前提を踏まえてどんどん次へと進んでいくものなのですが、トートロジーの場合、同じことを繰り返してしまうので、「AならばA、よってA」と全く前進しません。
もし相手が意図を読み取れない場合、ただ同じことを繰り返すだけで建設的な議論が全くできない人だと思われてしまうことになります。また、わざと難しい表現をしてお茶を濁すのにもよく使われるので、もし相手がトートロジーを使ってきた場合、煙に巻かれないよう注意が必要です。
例:「そうだといえばそうだし、違うといえば違う」
花の慶次での使われ方
お待ちかね、花の慶次での使われ方についてです。
伊達小次郎がけしかけてきた強面の岩茎鬼十郎に対して、前田慶次が言い放ったセリフで、花の慶次の中ではかなり有名なシーンです。それがこちら。
「虎は……なにゆえ強いと思う?」
「ん?」
「もともと強いからよ」
一見すると訳の分からない問答なのですが、トートロジーだと思って解釈すれば、とても奥が深い名言である可能性を秘めていることが分かります。
トートロジーだと思って好意的に解釈してみる
このセリフは同じことを繰り返していますよね。
虎がなぜ強いのか→元々強いから
この「なぜならば」の部分は通常の文脈であれば接続詞として重要なのですが、この一連のセリフでは機能していません。まさにトートロジーですね。
そして、2コマ目でこう続いています。
「お主はもともと弱いからそのような凶相になるほど剣の修行をせねばならぬのだ」
相手の岩茎鬼十郎は、めちゃくちゃ顔が怖いのですが、それについても言及したのですね。
ここで初めて慶次のセリフが相手に対する皮肉だったんだ、と分かるわけですね。
(※以下、個人的解釈により意訳)
「お前は顔が怖い。そんな怖い顔をしているのは小物の証拠だ。
自身の強さを持ち、もっと鷹揚に構えるのだ。
その余裕があれば、何もそんな怖い顔にならなくても済むのだ」
慶次は逆説的にこう解くことで、慶次という男の強さを殊更に強調し、格の違いを示唆したのではないでしょうか。実際にこの後、慶次はあっさりと岩茎鬼十郎を返り討ちにしています。
他にも虎の例が使われている
一応、このシーン以外にも虎の例が使われている場面があります。
それが、慶次の強さに驚いて「なぜそんなに強いんだ」と聞いてきた者に対し、
「虎や狼が日々鍛錬などするかね」
と答えるシーンです。
慶次はめちゃくちゃ強いのですが、自分が強いということをわざわざ誇示したりしません。
それはあくまで自然なことだと捉えているからだと思います。
それを、
「虎や狼は確かに強い。しかしそれは自然の摂理にしたがってそうなっているのであって、取り立てて騒ぐようなことでもないのだ。(したがって、俺も強い)」
と、このセリフを通して示唆しているのだと私は捉えています。
それにしても略しすぎだろ、という声が聞こえてきそうですが、それがまさに修辞技法のトートロジーにおける粋なのです。
まとめ
トートロジーというのは、常に真であること。言語学的には、同じことを繰り返し使うことを指します。花の慶次でも名台詞として使われています。
ちなみに、トートロジーの意味を知ったからと言って、全くどうということはありません。ただ、知ったかぶりができるだけなのです。なぜならばそれは、知ったかぶりができるからです。
トートロジーは内に秘めた感情を読み取るための、素敵な修辞技法
(※この記事には『花の慶次ー雲のかなたにー』の画像が一部使用されていますが、権利者様の名誉・権利を侵害する目的・意図はございません。掲載物において問題等がある場合は権利者様より直接ご連絡をお願いします。 確認後、即座に修正・削除等の対応をさせていただきます。)
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